自宅兼事務所で掃除機をかけながら、こう考えた。
仕事をしていて、お客様に予想以上に感謝され、あげくに報酬までいただける。思えば、ありがたい職業だ。サラリーマン時代に、どんなにいい仕事をしたからといって、感謝されたことなど、多分ない。この違いの根源は何か、と考えるに、これは要は、労働の対価の構造の違いによるものなのだろう。
士業の報酬は、いうまでもなく成果物・役務(サービス)の完成・引渡しに応じての感謝の印(しるし)だ。これに対して、被用者の受ける給与は、自由時間の拘束の対価というのが第一義的位置付け。それが証拠に、基本的に成果が上がる上がらないに拘わらずもらえる(振込まれる)のが基本形。早い話が、何もしない従業員も、規定の額がもらえる。ただし、賞与と昇進は業績評価(考課)次第、というのが建前だが。
転職直後に人事部に配属され、考課制度の改善を命ぜられた際、これまで敵視してきた人事考課というものを反対側から眺めながら、どう変えていったら納得性が高まるかと考え抜いたが、結局「成果主義」以外のアイデアには至らなかった。ただ、この「成果主義」も、日本の企業文化の中では相応の変容を遂げずにはすまない。所詮、人が同じ人を評価するには自ずと限界があり、究極、好き嫌いの問題ではないか、と揶揄されるのも、あながち根拠のないことではない。
外国為替というものがある。ある通貨の価値を、他の通貨で等価交換できる割合として表示するものである。大学で経済学の一項目として学びながら、妙な感想を抱いたことを記憶している。「一般均衡」の考え方からすれば、両通貨とも市場で交換される「財」の一種に過ぎず、それが証拠に一方が他方の尺度となる場合もあれば、他方が一方の尺度となる場合もある。つまり、いずれも相対的価値のもの同士で比較し合っている以上、「尺度」の方も時々刻々と変動している訳で、一意的な計測になっていないではないか、ということである。同じく経済学でいうと、「資本」の計測についても、同種の議論がある。
ヒトの評価が気にいらないからといって、越す国はあるまい。あるとすれば、ヒトでなしの国に行くばかりだ。されどヒトの評価を気にばかりしながら生きているのが、大半のヒト。まさに外国為替なみの、風見鶏のようなイイカゲンな尺度なのに。
脱サラして個人事業(フリーランス)の世界に入り、(ギグ・エコノミーの担い手として)仕事の評価と報酬というものを、別の角度から見直すきっかけになった、との思いを抱いている。
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ご参考 ⇒ https://www.aosjp.com/in-house-system-desiningjp (Ⅲ 社内制度設計・運用 → 3.)
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