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  • azaminoone

「私の履歴書」5 強烈なジャブ

最終更新: 6月9日

外交官時代②


80年代後半のアブダビ路線は、まだ「南回り」でした。日本航空で、バンコック→ボンベイ(現称ムンバイ)経由アテネ行きで、ほぼ1日がかりの旅です。中東なので、真夜中の2時頃、タラップに出ると、もう10月とはいえ、足元から強烈な熱気と湿気が立ち昇ります。「来たんだ」という実感がわきました。日中は40℃台、湿度は、ほぼ100%です。


大使館の方々は、官民からの出向者(「アタシェ(専門員)」)も含め、皆さん極めて温厚で、優しく面倒を見てくださいました。館員は、大使、公使、領事、政務、庶務、電信までが外務省プロパーで、他に経済、軍事(自衛隊)、石油、金融・文化の各アタシェ、他に庶務付きの嘱託館員がいて、ここまでが日本人。あとは「ローカル」と呼ばれる館員で、エジプト、ソマリア、スーダン、インド、パキスタンなどの出身者でした。私は金融・文化アタシェですが、つまりは他の方々の担当とならないもの全て、という役回りで、特に日本文化を現地の人々に伝える、「日本週間」をはじめとした公演・展示ものの主催が、大きな仕事でした。なお、庶務嘱託と私だけが独身者でした。アラブ世界は男社会なので、外交官ながら、公式行事への夫婦参加は一般的でないため、生活が厳しい国では単身・独身が多いですが、当地は比較的生活し易い国で、日本人学校もあるため、家族帯同が一般的でした。


在任2年間に、2度の「日本週間」を主催しました。当国は、人口の半分がインド系、1/3がパキスタン系の移民労働者であり、パキスタン系の多くはドライバーなので、このような催しものの人足となるのは、ほとんどがインド系(ケララ州という、イスラム教地域の出身者)でした。担当割表やスケジュール表(パート図)を詳細に英語で作成して配り、指示を与えましたが、ほとんどこれには従ってくれず、その都度、駆け回って善後策を指示し直すという状況でした。最初から、強烈なジャブを喰らった心境でした。


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